こうして人は性こりもなく悲しみのなかからまた立ち上がる

2年前に書いた日記をふと読み返して、気まぐれに掲載することにした。随分と昔のことのように思える、、、。

 

 

 

2018年5月26日

 

アボカドと野菜が入った美味しいサンドイッチが食べたくて大学の空きコマの時間に青山通りを歩く。

適当に歩いていても見つからないことが分かるとネットで調べたお店がある表参道まで向かった。狭い路地にそのサンドイッチ屋はあって見つけるのに少し苦労する。
店に入りレジ前のメニューを見る。
それからアボカドとエビのサンドイッチをテイクアウトで頼む。
「アボカドは30分ほど経つと変色してしまいますのでお早めにお召し上がり下さい」と店員が言った。
店員はそう言うとパンを大きな鉄板で焼き始める。本格的なサンドイッチ屋だった。


小さな紙バックに入ったサンドイッチを受け取り大学へと急ぐ。途中、アボカドが変色と心配しながら30分以内に到着するように歩く。そう思いながらもなるようなるしかないという気持ちも湧いてくる。アボカドが変色することで誰かが死ぬわけではないのだ。勾配が多く洒落た店の並ぶ通りをうっすらとわきに汗を滲ませながら進んだ。
大学に着くと空調の効いた部屋でサンドイッチを食べようと思って涼しい場所を探す。図書館がある建物。教職員用のビル。教室がある建物。しかし、どこも冷房は弱くて、結局
少し風が吹く外の屋根付きの小さな
東屋に向かう。
ベンチの周りにはツツジなどの低木や銀杏の木などが庭園風にところどころに配置されていて大学の中でも落ち着いた場所の一つであった。
そこへ腰掛けてサンドイッチを自販機で買ったグレープフルーツジュースと一緒に食べる。

グレープフルーツジュースは缶の表面にピンクグレープフルーツジュースと書いてあるが中身が見えないためピンクなのかは分からなかった。普段から中身の色なんか気にしないでジュースを飲んでいる。

きっと缶コーラの色が緑色だったとしても平気で飲んでしまうだろう。
そうやって小さな東屋で少しの間を過ごす。


これから哲学の授業。題は時間と空間。
時間か果たして可逆的であるか非可逆的であるかを考える。私達は空間を移動することができるが時間を移動することはできない。
今のところ時間は非可逆的らしい。僕らは過去へは行くことができない。同一線上にないパラレルワールドの過去はそれはこの世界の過去とは呼べない。
僕らはこの時間で生きていくことができるが、この時間の他に生きる術を今はもたない。


授業を終えて電車に乗り込む。今日は千葉
で夜勤の仕事。渋谷から1時間ほどかかっても仕事の内容が楽な事を知っているから特に悪い気はしない。渋谷から山手線で代々木へ行って、そこから総武線に乗り換えて新検見川駅までの25駅ほどを通過する。乗換案内の通過駅を見ると彼女が暮らしていた町の駅の名前があった。僕は何度か彼女に会いにその駅まで向かって食事をした。
かつてこの線路を通って彼女に会いに行ったことを考える。その頃は僕らはお互いに手話に関心を持っていて走り出した帰りの電車の中で手話で彼女にまたねと言った。
アナウンスが告げる。彼女が住んでいた町の名を。少しだけ気持ちが乱れる。
車窓から彼女と彼女の友達達と食事をしたビルの居酒屋が見えた。
あの時、彼女の友達に「大事にしてね」と言われたことを思い出した。
それから彼女の住む町を夜に二人で歩いたことを思い出す。図書館や団地、線路、駅前の自転車置き場、彼女が小さい頃から親しんだ街中の風景を僕らは歩いた。あの時は帰る時間がやってくるにつれてどうしようもなく離れたくない感情を覚えたことを思い出す。
昔の事なのにだんだんと感傷的になってきた。
そして静かに溜息をつく。
彼女の暮らした町を離れて電車は目的地へと進んでいく。
「私達は言葉にならない者達の声を聞いてそれを詩にしなければならない」石牟礼道子についての著作を書いた著者は出版記念講演会で言っていた。

今の僕の生活の中には自分には気づいていない多くの声がきっと発されているのだろう。

地元での生活、家族、友達、風景。僕がまだ知らない沢山の幸福が沢山あるのだろう。
「沢山の幸福と沢山の女性」
ふと、その考えが頭に浮かぶ。
幸福と女性は等しくないはずだ。


①この世には自分の知らない沢山の女性がいる。きっといつか自分にぴったりな女性に巡り会えるはずだ。


②この世には自分の知らない沢山の幸福がある。
きっといつか自分にぴったりな幸福に巡り会えるはずだ。

 


今の僕の思考には2つめの文は正しいと思っているふしがある。


①に関しては、一人だけを選んで愛する努力が必要であると思っている。なぜなら、自分にぴったりな女性とは過去の考察から存在できないものだと結論したからである。
だから世俗の女性に求めるものは共生とかすかな精神的な繋がりである。
精神的な繋がりの大部分は永遠性に求めるべきものだ。
②も①と似たようなものではないだろうか。
一つの幸福を大切にする努力が必要なのだ。
理想の幸福など存在しない。


先ほど①と②は等しくないと書いたがどちらも同じもののことについて考えているように思える。僕の頭の中では女性は幸福に繋がるものだと信じてるのだ。


沢山の幸福があって、沢山の女性がいることは事実だ。
しかし、「私個人の幸福」について考えるとき、多数の幸福は自分にとっての幸福とは言えない。
私はほとんど多くの他人が幸福を持っている、感じていることを信じる。
私は多くの女性がこの世にいることを信じる。
しかし、そのほとんどすべては現実的に私とは関係しない、関係することのできないものや女性達である。
つまりそれらの多くの物事(幸福)について考えるとき女性についてと同様、まだ見ぬ幸福が世界中に沢山あってそれらを自分が経験する可能性があると考えることは非現実的なことであり、ここではそれらの物事に対して、あるということについて他者への共感という観点に目を向けるべきものだと思われる。


そんなことを考えている間に電車は目的地の駅に到着した。
仕事先のトラックを見つけて、トラックに乗っている派遣先の社員に声をかけて、それから長い仕事が始まった。


23時半から4時半まで仕事。
4時を過ぎると外は明るくなってくる。
暑くもなく寒くもなく丁度良い風が吹く駅のホームのベンチに座って電車を待つ。
やがて電車がやってくると僕は電車で行きと同じ道を辿っていった。
土曜日4時台の総武線の電車は人がまばらで、僕の正面には登山バックに折りたたみストッキを付けた女性が座っている。おそらく関東近辺
の山へ登山に行くのだろう。
昨夜は分からなかった千葉の景色が車窓から見える。知らない街、知らない建物、駅前のビル。誰かの住む街。僕の知らない生活。
夜勤明けの眠気の中で熟睡することもできず、かといって目を閉じることもせずに、スマートフォンで文字を打ち続ける。
欠伸をしてようやく眠気が増してくる。
今日の午前中は曇りのようだから日の出は見えない。もし、日が昇ってしまったらきっと身体中の疲れがどっと押し寄せて来るだろう。
今の僕にとって気持ちの良い日の出は日暮れの時間のようなものなのだ。
彼女が暮らした街の駅に停車する。
少しだけ駅のホームで彼女の姿を探す。
ああ、きっと彼女はまだ寝ているのだろう。
どうか気持ちの良い目覚めを迎えて、そして幸福な一日を過ごしてほしい。
僕にはそうすることがきっと良いことなのだと思う。
だんだんと眠気がプールに水が溜まっていくように増してきた。
さあ、少しだけ目を閉じよう。